エクセレンスロビン

※ 「ロビン」からパッと浮かんだのがエクセレンスロビンでしたが、netkeibaによると、ロビン界の出世頭はスマートロビンでした。ロビンソンシチーは盲点だった。本田先生で重賞勝った馬だったはず。

4.ノッティンガム城

4.1 ロビンフッド

 ノッティンガム城にやってきました。まずは、城の北東部にある簡単な広場。ここにはロビンフッドの銅像があります。

 ところで。ロビン・フッド。名前は誰でも知ってます。が。何をした人なのでしょうか。皆さんご存じなのでしょうか。
 とりあえずWikipediaに聞いてみます。しかし、これを見ても、伝説上の人物であること、叙事詩のなかで語られる人物であることなどは分かりますが、イマイチ何をしたのかがピンときません。このふわふわ感、皆さんが金太郎に抱いている、クマと相撲したこと以外に何をやったのかよく分からない、という印象に近いと思ったんですが、いかがでしょうか。勝手に自分の無知さを「皆さん」と広げるなと怒られそうです。

 というわけで、2025年になってようやく文明の利器の使い方を学びつつあるお馬鹿NPは、意を決してChat GPTさんに聞いてみました。

ロビン・フッド(Robin Hood) — 伝説の要点まとめ

「貧しい者のために金持ちから奪い、貧者に分け与える」義賊として知られるロビン・フッドの伝承を、背景・登場人物・あらすじ・テーマごとに整理しました。

概要

ロビン・フッドは中世イングランド(主にシャーウッドの森=Sherwood Forest とノッティンガムを舞台)で語られる伝説的なアウトロー(義賊)です。 彼は腐敗した役人や独裁的な代官を避け、弱者を助けるために富を再分配する行為で知られ、仲間たち(メリー・メン)とともに活動します。

主要登場人物

あらすじ(短く)

ロビン・フッドは不正に苦しむ民衆を救うため、シャーウッドの森で義賊団を組織し、富める者や腐敗した役人から奪った財を貧しい人々に分け与える。多くの話では、リチャード王が十字軍から帰還して悪政が正され、ロビンは赦されることで物語は締めくくられる。

あらすじ(詳細)

ロビンはかつて町や領主のもとで暮らしていたが、代官や役人の不正・重税に対して立ち上がり、追われる身となる。シャーウッドの森に逃れ、そこで同じ志を持つ仲間たちと合流する。

ロビンと仲間(メリー・メン)は森で略奪を行うのではなく、標的を選びます。主に富裕層・圧政者・不公正な徴税者を標的とし、得た金品は村人や困窮者へと配られる。ロビンは高潔な振る舞いと弓の名手として評判を得る。

ノッティンガムの代官はロビンを捕らえようと策を巡らし、マリアンが危機に陥ることもある。ロビンは様々な策略や戦術(奇襲、決闘、罠)でこれを退けるが、物語は緊張を増す。

多くの版本では、リチャード1世が十字軍から帰還するか、あるいは法と正義の回復があり、ジョン王子や代官の悪政が終わる。その後、ロビンは赦免を受け、平穏な暮らしへと戻る。別の版本では、裏切りや陰謀で悲劇的な最期を迎えることもある(例:聖職者への裏切りで命を落とす)。

主題・意義

ロビン・フッド伝説は単なる冒険譚ではなく、以下のようなテーマを含みます:

代表的な派生作品(例)

注記・参考

このページのあらすじは「伝承(民話・民衆文学)」に基づく代表的なまとめです。時代や作者ごとに登場人物や展開が変わるため、学術的な史実とは区別してください。

 というわけで、イギリスでは獅子心王リチャード1世(「獅子心」って、ライオンハートの邦訳なんですな)が大人気で、他方でジョン王子あるいは代官が分かりやすい悪役として、圧政と重税で民を苦しめていたということのようです。そして、そのジョン王子と悪代官に対抗すべく立ち上がった義賊のロビンフッドと仲間達が人気になっているということなのですな。
 この「義賊」と呼ばれる人たち、私が最初に意識したのはオーストラリアメルボルンで人気のネッド・ケリーです。イギリスで有名な悪人というとガイ・フォークスが思い浮かんだのですが、この人は義賊にはカテゴライズされていないのですな。
 このあたりのアウトローへの憧れ、日本だと石川五右衛門に国定忠治あたりが義賊のWikipediaで触れられており、それこそ新選組あたりもこの流れに入ってくるんじゃないかと思ったりします。どの国でもこういう人への憧れはあるのですな。

 というわけで、おそらく大学受験期以来(その後も簡単なイギリス史の本は読んでるはずなのだが)、「獅子心王リチャード1世」という名前を見ました。何事も復習が重要です。
 なお、「頭の上のリンゴを矢で射落とした人って誰だっけ」という疑問がちょっと頭をよぎりましたが、ウィリアム・テルでした。

北東の広場 布団らしきもの
ホームレスが使ってる?
ロビンフッドの銅像 狙った先にはトンネル 逆側
その他の銅像 城壁。レンガのサイズがまちまちなので、後世に補強されていると思われます
埋め込まれたレリーフ。ロビンフッド伝説の場面を切り取ったもののようです 銅像とレリーフは1949年に
市のCharterから500年を記念して
設置されたもののようです

4.2 城門&ノッティンガム城について

 それでは、ノッティンガム城へ入ります。城門は、ロビンフッド広場からぐるっと回って坂を登ったところにあります。
 ウェールズ旅行でも見慣れた、左右に円塔があるタイプのごっつい城門であります。こういうのを見ると「イギリスの城!」という感じがしてテンションが上がりますね。
 入場料は7ポンド。当時のレートで1200円くらいでしょうか。3桁円で入れていた姫路城の異常さが際立ちます。なお、2025年には15ポンドと、倍以上に値上がりしております。

 置き場に悩んだので、この城に関する私の当時のメモは以下の通り。
- 城の入り口にあるのかと思ったら違った
- そもそもロビン・フッドが何をしたか知らないが、ロビンと入れるとATOKが予測変換を出してきた
- 城壁継ぎ接ぎ
- 橋はヘンリー二世時代のもの
- 水堀はなかった。砂岩で水がしみこむため
- リチャード獅子王が兄弟喧嘩で攻撃。ひょうりょう攻めで攻略
- その後不要になり放置。町中の家を建てるのに石が持って行かれる
- 今の建物はシビルウォーゴ
- チャットウォースハウスのセカンドハウスに
- 1960代が最期の地下の家
- ヘンリー二世殺害のモーティマがここで罰せられた
- 穴は中世の伝書鳩に加え、シビルウォーで鳩がとまって食料にすることをきたい
 最初の3つはロビンフッドの銅像がある広場のことだと思います。

 そして、城門への橋と、その橋がかかっている堀について。「ヘンリー2世時代」と聞いても西暦何年頃のことか分からないのが、歴史に疎い人間の弱みです。「織田信長時代」と聞いたら分かるのだが。いずれにしても、砂岩質の街なだけに、水堀がなかったというのは非常に分かりやすい話です。
Welcome 7ポンドでした 城の歴史 解説板
城門 Robin Hood Way Starts here 城門を進む 7ポンドで何回でも入れます
パンフレットより とある本より
場内案内 Gatehouseの案内 城の歴史

 さて、ロビン・フッドについて聞いてみたついでに、ノッティンガム城についてもChat GPTさんに聞いてみました。
 3方を崖に囲まれた天然の要害であったことが分かりますね。

ノッティンガム城(12世紀末)の縄張り — 解説(出典付き)

Castle Rock(城岩)上に築かれた天然要害を利用する城郭構成。以下は地形・郭(bailey)構成、主要建築、地下構造、現存状況をまとめた解説です。

全体概観(要点)

ノッティンガム城は「Castle Rock」と呼ばれる砂岩の岩盤(城丘)上に立ち、南・西・東が急崖、北側のみ緩斜面であるという天然の要害を持ちます。このため、城郭は崖縁を生かした「上郭(Upper/Inner Bailey)・中郭(Middle Bailey)・外郭(Outer/Northern Bailey)」という複数の郭で構成され、北側が実質的な攻撃・進入方向でした。:contentReference[oaicite:0]{index=0}

地形と立地の特徴

Castle Rock は城の南西側に向けて高さ約40m(約130フィート)の断崖を形成し、城の大部分はこの崖上に築かれています。断崖は天然の防御線となり、城の縄張り設計はこの地形に依存しました。北側の緩斜面には門・外郭・交通路を配置しており、ここが包囲時の主戦面となります。:contentReference[oaicite:1]{index=1}

郭(Bailey)構成

中世期のノッティンガム城は、時期による増改築はありつつも、複数の郭(上郭・中郭・外郭・北郭)を持つ構成が確認されています。主要郭は高所(主塔=Keep)を抱える上郭と、北側に広がる外郭(物資・兵舎)でした。:contentReference[oaicite:2]{index=2}

主要な防御要素と建物

  1. Keep(主塔):上郭の最深部に置かれる最後の防衛拠点。中世の主要な政務・居住施設も兼ねました。:contentReference[oaicite:6]{index=6}
  2. Gatehouse(門・虎口):北側の進入路に設けられ、橋と堀・前庭堡(barbican)などで二重防御されました。現存の城門部は当初の構造を部分的に伝えています。:contentReference[oaicite:7]{index=7}
  3. Curtain walls(石塁)と角塔:郭間を仕切る厚い石壁と角塔によって、北側からの攻撃を分断・撃退する設計がなされました。外郭壁は中世後期の修築痕も残ります。:contentReference[oaicite:8]{index=8}

地下・洞窟構造(Mortimer's Hole 等)

城丘(砂岩)には古くから人工洞窟や通路が掘られており、貯蔵や脱出口、通行路として利用されました。代表的な通路として「Mortimer's Hole」などが伝わり、城の地下構造は後世の史料や発掘で確認されています。これらは城の防備・補給路としての重要性を持ちます。:contentReference[oaicite:9]{index=9}

防御上の評価(戦術的特徴)

崖による天然防壁は極めて有利ですが、逆に城内部の面積が制限されるため長期籠城よりも短期防御・最後の拠点としての性格が強いと評価されます。1194年の包囲戦でも、迅速な王側の行動と城内の補給制約が降伏を早めた一因とされています。:contentReference[oaicite:10]{index=10}

現存状況(遺構)

中世城郭本体の多くは17世紀以降の破壊・再建で失われましたが、外郭の一部塁壁・塔や城門、岩盤上の地下遺構は現存・整備されています。Historic England による外郭壁の保存状況報告や、ノッティンガム城公式の洞窟ツアー資料でも詳細が公開されています。:contentReference[oaicite:11]{index=11}

注記(史料の性格)

本稿は近現代の研究・史跡記録(調査報告・Historic England・城の保存計画等)を参照した一般向けの縄張り解説です。中世の正確な配置や年代は改築・増築の影響を受け、研究者間で解釈に差があります。学術的に詳細を扱う場合は、一次史料や考古学報告書をご確認ください。:contentReference[oaicite:12]{index=12}

出典・参考(主要)

※ 上の出典リストはオンライン参照用の主要資料例です。図や学術引用が必要な場合は、各ページ中の一次史料・参考文献欄をあわせて参照してください。

(作成)ChatGPT — 本ページは公開資料・史跡記録を基にした一般向け解説です。学術目的での厳密な検討には一次史料・専門書の参照を推奨します。


 そんなChat GPTとキャッチボールをしていたところ、Chat GPT自ら、鳥瞰図と平面図をつくるとか宣言してきたので期待して鳥瞰図と平面図を作って貰ったところ、以下のようなものができました。2枚目は、「平面図を出す」と宣言したくせに鳥瞰図を出してきたので晒してやります。3枚目は、城門は北と言ってるくせに南に城門がある縄張り図をつくってきたのでこれも晒してやります。とりあえずChat GPTはもうちょっと城オタの欲するものを学んでから出直してきて下さい。

それっぽく描いてきた鳥瞰図 平面図を描くと言って
鳥瞰図を描いてきました
北に城門とか言ってたのに
これを描いてきました
最終的にそれっぽいのを
出してきました
あまりにそれっぽいので、
信用しそうになります

 ついでに、1194年のノッティンガム城の戦い、リチャード1世vsジョン王の争いについてもChat GPTに出してもらいました。これで終わりにします。

ノッティンガム城の戦い(1194年)

リチャード1世(獅子心王)による王権回復の決定的瞬間。図版付きで背景・経過・影響をわかりやすく整理します。

主要年代:1192–1194年(捕虜・帰国含む)/包囲:1194年3月(おおよその時期)

背景

王であるリチャード1世は第三回十字軍に出征し、帰途に捕虜となりました。釈放されたのち、1194年にイングランドへ帰還します。その間、弟のジョン王子らが国内で勢力を拡大し、反乱・王権揺らぎの状況が生じました。

ノッティンガム城はCastle Rockの上に築かれ、南・東・西が断崖、北側が緩斜面という防御に有利な地形を持っていました。反乱派が拠点としたこの城を制することは、王権回復の象徴的出来事となりました。

関係者・兵力(概要)

※中世史料には兵力・編成の詳細が明記されておらず、数値は研究者の推定に基づいています。

包囲の経過

  1. 1194年、リチャード1世は釈放・帰国後、直ちにイングランド国内の反乱鎮圧に向かいます。
  2. ノッティンガム城に進軍し、北側斜面から包囲を開始。地形の利を活かしつつ北側から攻撃を仕掛けました。
  3. 城側は長期籠城態勢を整えておらず、短期間(数日〜数週間)で降伏。大規模な消耗戦には至りませんでした。
  4. 包囲成功後、リチャードはノッティンガム城で評議会を開き、王権回復を宣言しました。

結果と影響

出典・参考文献

作成:ChatGPT/本ページの内容は出典を元にした一般向け解説であり、研究用には一次史料・学術書をご参照ください。

 私のメモには、兵糧攻めを行ったようなことが書かれておりましたが、実際には早期に決着したようですね。秀吉もビックリです。

4.3 ノッティンガム城外郭

 Chat GPTと遊ぶのはこれまでにして、城内に入っていくことにします。
 ここノッティンガム城は、Outer Bailey、Middle Bailey、Inner Baileyの3つからなります。これはChat GPTのみならず、ここが出してるパンフレットにもさらっとこれらの単語が出てくるので間違いないでしょう。そして、パンフレットによると、現在のPlaygroundがMiddle Baileyだとありますので、現在のArt GalleryのあるところがInner Bailey、それ以外がOuter Baileyということで問題無さそうです。

 というわけで、中に入ると広々としたOuter Bailey。日本では三の丸的な呼び方をされ、おそらく昭和期にソメイヨシノが植えられるか、昔から植えられていた松林や梅林があるかしそうな場所です。
城内に入ってぐるりと 城門を振り返る 少し進んで振り返る
城内にもロビンフッドがいます 進んだところから外郭東方向 主郭方向を見上げる The Sweepers
4.4 Middle Bailey Bridge & Middle Bailey

 日本でいうところの、三の丸から二の丸に渡るための橋になります。日本だと土橋だったり、いざというときに壊すための木の橋だったりしますが、ここイギリスでは昔から石橋だったようです。
 この石橋まわり、解説板を読むとかつてはtimberがあったとのことですから、水が流れていたのでしょうかね?それにしては城自体が高台にありすぎる気がします。もしかしたら、空堀のこともtimberと呼ぶのでしょうか。私の英語力には限界があります。
 いずれにしても、現在は石橋をくぐるかたちがあるだけでなく、主格に向かった扉のようなものもあったりして、非常に技巧的な縄張り構造になっており、興味深いです。あとでArt Gallery内に復元模型が出てきますが、それを見ると今の姿よりもシンプルです。今はかつての堀底を歩いてから上に登れるような設計になっているので、より公園感が増していますね。
 かつては橋を渡りきったところにしっかりしたGatehouseがあったようです。日本でいうなら二の丸櫓門という感じになるでしょうか。解説板を読んでなかったので、「旧櫓門」という感じの写真が残されていません。一応、後述のCave Tour後にこのあたりに戻ってきたようなので、その際の写真もここに載せてしまいます。
Middle Bailey Bridge and Gatehouse かつての堀底の様子
石橋と、右手には現代の車道
主郭をくぐるかたちになる車道
現代につくられたと思われます
石橋を横(堀底)から 石橋をくぐる 振り返る 振り返ったあたりの石の様子 くぐった先には上り坂
堀底を見下ろす 石橋 Gatehouse方向 外郭を見下ろす 坂道を見下ろす
 続いて、Middle Bailey。日本語に直訳すると中郭。読むと「ちゅうかく」になってしまい、「中核」というイメージになります。もしかしたら読み方で中郭を城の中核であるところの主郭であると勘違いさせる作戦でしょうか。とまあ、くだらない話はさておき、とりあえず解説板を読みます。
 それによると、現在Castle Greenとなっている場所には、かつてGreat ChapelとGreat Hallがあったようです。Chapelにはお墓もあったとか。衛生的に大丈夫だったんでしょうか。Great Hallは重要な来客をもてなすホールだったりするようなので、日本でいうところの二の丸御殿に大きな客間があるイメージですね。
Middle Baileyの解説 現在は広々とした芝生広場です
 Middle Baileyはいったんはこれで終わっていたのですが(なにせ芝生しかない)、最後の最後に戻ってきて、今では単なる石の集合体でしかないKing Richard's Tower跡地を眺めていったようです。
 ヘンリー2世が12~13世紀にかけてそれまでの木造の防御構造を石造りにつくりかえたようですね。King Richard's Tower自体は、King Richardの住宅用の建物だったようです。最大の問題は、お馬鹿NPは「King Richard」と言われても誰のことかさっぱり分からない点にあります。まあこれはいつか分かる日が来ると信じましょう。
King Richard's Tower
解説板
4.5 Upper Bailey・Art Gallery

 それでは、いよいよUpper Baileyへ。日本でいうところの本丸ですね。
 東のテラス(Eastern Facade)への階段はパンフレットによると17世紀にできたもののようです。二の丸から本丸へ上がる階段なので、かつては門とかもあったのではないかと思います。
Facadeへの階段 給電を見上げる 石像 宮殿の裏側の道
 そして、Eastern Facade。ここからの眺めは美しいですね。なお、「東」とありますが、実際には南東方向を向いてる気がします。
 解説によると、東側のドアの上にかつては最初の君主(Duke)の騎馬像があったようですが、1831年の暴動時にぶっ壊されたようです。真面目に解説板を読んでいない私は、もちろんドア自体撮ってません。
解説板 読みやすくするためにアップに
真ん中の絵のさらに真ん中の上に、白い騎馬像がみえます
テラスの様子
テラスからの眺
4枚目の真ん中の白い奴は、University of NottinghamのCentral Buildingのようです
 ここで、ちょっと気になる1831年のノッティンガム暴動について、Chat GPTさんに問い合わせてみました。

1831年 ノッティンガム暴動(Nottingham Riots)

英国の選挙改革(Reform Bill)を巡る抗議の一環として起きた都市暴動。ここでは背景・出来事・影響を簡潔に整理します。

概要(要点)

1831年10月、英国議会の選挙制度改革をめぐる政治的緊張が高まる中、ノッティンガムでは改革反対派や上院の否決に対する怒りが暴動へと発展しました。 群衆はノッティンガム城を襲撃・放火し(城の主要建物は焼失)、その後の鎮圧や裁判により多数の逮捕・処罰が行われました。事件は翌年の1832年改革法成立に至る一連の社会的圧力の一端となりました。

背景

出来事(簡潔年表)

主要期:1831年10月(主な暴動は10月9日–11日前後)
  1. 上院の否決(1831年10月8日付近):改革法案が上院で否決されると、各地で抗議が激化。
  2. ノッティンガムでの抗議の高まり:市民・労働者らが集会・行進を行い、緊張が高まる。
  3. 城の襲撃・放火(10月9–11日付近):暴徒はノッティンガム城に放火し、公爵の屋敷や一部行政施設が損壊・焼失。
  4. 鎮圧と処罰:軍や治安部隊が出動し暴動は数日で鎮圧。多数の逮捕者が出て、重罪として訴追された者もいた。

結果・歴史的意義

注記

日付・出来事の細部(正確な焼失日時や逮捕者数など)は、一次史料(当時紙面・市議会記録・裁判記録)によって差異があるため、学術用途には一次資料の検証を推奨します。本稿は教育向けの要約です。

参考文献・一次資料(例)

以下は本ページ作成にあたって参照を推奨する主要文献・資料例です。公開・学術利用の際は各資料の版権・引用ルールに従ってください。

作成:ChatGPT — 本文は公開史料・歴史研究に基づく教育用の要約です。学術的・出版目的での詳細検証は一次史料の参照をお願いします。

 なお、私はこれをつくるにあたり、最初間違って1931年のノッティンガム暴動について教えてくれと問い合わせたところ、それっぽい回答が出てきました。本当に1931年暴動は存在したのでしょうか。いやもちろん、世界中大恐慌になっている時代なので、それっぽい暴動はほぼ確実にあったと思われますが、ChatGPTさんは本当にしっかり調べた上で史実にあった出来事を教えてくれていたのでしょうか。
自信満々に1931年暴動について
語ってくれたのですが……
新聞の見出しを見せてくれるはずだったのに
 1831年のノッティンガム暴動については、慶應大学の松村高夫氏の「1831年のノッティンガム」という論文が三田学会雑誌に掲載されております。これを読めばChat GPTに勝てるくらいの知識は身につくと思いますが、残念ながら私にはこれを読む気力がありません。

 では、Art Galleryに向かいます。おそらく時間的余裕がそんなになかったために残された写真の枚数が少なくて助かります。
 ちなみに、Wikipediaによると、このArt Galleryは2018年7月から2年間改修工事を行っていたようなので、おそらく再訪したら中の雰囲気は大きく変わっていることでしょう。
Art Galleryへ Castle Caves Revealed Gordon Cheung氏の展示

 まずは1831年のノッティンガム暴動に関する展示、ということでしょうか。Marriotts versus the mobということで、Castle Lodge Keeper(Lodgeの訳はなにが正しいのか分からんけれど、とにかく何らかの建物の管理人でしょう)のMarriottさんは、600人の暴動に襲われてなすすべなかったということのようです。
 そして、家をぶっ壊されたDukeさんが裁判に出した建物のモデルも合わせて展示されています。この裁判で得た2万1000ポンド(現在の価値にして100万ポンド)を、建物の復興に使わなかったという、なかなかなナイスガイですね。

マリオットさん 暴動を起こした人たちは
処刑されたようです
建物の模型の解説
 1831年暴動の影響がどこまであったのかなかったのかは私には分かりませんが、とにかく城は1878年にArt Galleryに変わったようです。
1878年にArt Galleryに RIOT1831のアプリがある? 展示の様子
 そして、お待ちかね、1830年のNottinghamのジオラマです。1830年代にはNottinghamは人口過密で苦しんでおり、住宅の3倍の人口があったとかなかったとか。
 そして、ここにザ・ブリカスというべき文字が。私はこれをスマホでも撮っていたので、よほど気に入ったのでしょう。
 Nottingham... "The worst slum in the British Empire outside India"
 ……ここであえてインドをディスるんかい。
 そして、さらにお待ちかね。1500年ころのノッティンガム城のジオラマです。これがこのGalleryのメインパート。そして写真を撮らせてくれてありがたい。おかげで2025年になって復習できました。
1500年頃のNottingham Castle
東方向から
北側から。Gatehouseが目立ちます
そして、Middle Bailey BridgeとGatehouseの構造もよく分かります
西側から
南西方向 南東方向 東方向 北東方向

4.6 Castle Cave

 最後に、Caveに関するちょっとした展示を見て、Art Galleryをあとにします。
 エドワード3世vsモーティマーについては、エドワード3世のWikipediaにも記述がありますね。
 また、例えばNational Geographic”権力の行方、ノッティンガム城の地下”や、工藤ダリアさんの英国歴史の館 コレクション”Nottingham Castle ノッテインガム・カースル:「負の拠点」前編、初代マーチ伯ロジャー・モーティマー、引きずり出された王妃の愛人”など、このあたりから探りを入れるとノッティンガム城についての記述が多く見つかります。最初からこの方向から攻めていたら、もうちょっとノッティンガム城に関する記事が見つかったぽいな。

Nottingham Caves
この展示では、洞窟の数は430ほど
いかにどんどん見つかってるかが分かります
12世紀のMortimer's Hole
エドワード3世が1330年に
ここを通って母親とモーティマーを
逮捕したとのこと
暗かったので読みづらすぎる なんの展示か忘れた
あらためて、Art Galleryを Middle BaileyからArt Galleryを見る Art GalleryからMiddle Baileyを見る

 それでは、Castle Caveへ。
 ほかの写真には観光客がほぼ映っていないのに、洞窟の写真には映りまくっていることからして、これCave Tourに参加したっぽいな。記録も記憶もないのだけれど、それならば冒頭に書いたメモが残されている理由も分かるぞ。

 というわけで関連しそうなメモを再掲
- 1960代が最期の地下の家
- ヘンリー二世殺害のモーティマがここで罰せられた
- 穴は中世の伝書鳩に加え、シビルウォーで鳩がとまって食料にすることをきたい

 なんとなく、「鳩の穴」の説明を聞いたような遠い記憶がよみがえってきたけれど、単にデジャヴの可能性もあります。鳩の話はトルコでも聞いたような気がするな。

洞窟へ入っていきます 振り返る 進む
一旦外に出た これらの穴が、私のメモにあったところの鳩のための穴ですね
さらに進みます

 洞窟を抜けて、下に出ました。城の南側に出たことになります。
 時間に余裕があったら、さっきのロビンフッド広場からぐるっと城の周りを一周したりしたんでしょうけれど、時間がないのでここで初めて南側の崖から城を見上げる形となります。砂岩質の崖の上に城がある姿というのは日本ではあまり見かけない気がするので、非常に新鮮です。

砂岩質の岩肌
岩肌に食い込むように立てられている建物 その奥に出入り口
The Victorian Grotto
Grottoとは洞窟という意味のようです
Dig for Victory
防空壕のキャッチフレーズがここにも
The Castle Rock
 ここにあるのが、自称”The oldest inn in England”であるYe Olde Trip to Jerusalem。なんと、Wikipedia項目があります
 1189年開業を自称しておりますが、Wikipediaによると、開業年の根拠となる文書等は存在しないとのことです。まあこういうのは言ったもん勝ちです。とはいえ、イギリス指定建造物の2級(Grade II)に指定されているのは事実でしょうから、価値のある建物ではありますね。
 このYe Olde Trip to JerusalemのWikipedia項目には、イングランド最古のパブを自称するその他のPubについても言及があります。それにしても、根拠資料がないことに関する「イングランド最古のパブ」の項目のラストが、「要出典」で終わっている(2025年現在)のはなかなかに皮肉です。
Ye Olde Trip to Jerusalem 洞窟とくっついているのが分かる 遠くから 案内看板 要出典
 そして、そこからロビンフッド広場へ向かうあたりの城壁。これは古き良きヨーロッパの城、という感じの石の城壁と円塔が見えて非常に美しい。
美しい城壁と、下部には洞窟の入口的なものが見えます 重厚な円塔 ロビンフッド広場から
円塔とGatehouseを見る
 と、いうわけで、Cave Tourもこれで終わったようです。戻っていく際の写真が一切残されておらず、果たして私はどうやって城内に復帰したのか分かりません。写真を撮る余裕もない何かがあったのでしょうか。
 いずれにしても続いて出てくる写真は、外郭の写真です。そのあと、再びMiddle Bailey Bridgeを眺めにいったようで、そこから戻ってきてAlbert Mall Memorial。
外郭に戻ってきました Albert Mall Memorial
 続いて、先ほど下から「美しい城壁」として見上げたあたりへ。
 先ほど見上げた円塔は、今では円形テラスのような感じになっています
円塔の上 城壁の上 円塔から城壁を見る 円塔の真ん中にある
記念碑
 そして、Edwardian Bandstand。解説板は写真に残っていません。
Edwardian Bandstand あらためて中郭との間の堀底と、そこを通る現代の通路
 最後に、Middle BaileyのKing Richard's Towerを見たようです。写真は整理の都合上Middle Baileyのところに。

 というわけで、ノッティンガム城探索終了。これからSouthwell競馬場へ向かいます。
 おそらく駅へ向かっている最中に撮ったであろう運河の写真が3枚残されていたので、意味もなくここに残しておきます。

北アイルランド旅行


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